筆者:榎本恒比古 若睦相談役
補足者:加藤安彦 総代
その昔、南開橋がまだなかった頃、東陽一丁目の町会倉庫は現在の南開橋のたもと付近にあったそうです。
昭和20年の東京大空襲で、深川洲崎弁天町(現東陽一丁目)も灰燼と化してしまいました。
もちろん神輿も山車も消失しました。
私が聞いているのは、夏になると、大門通りのどん詰まりで屋外映写会、花柳界のお姉さん達による生花展示会が葦簀張りの小屋であり、佳き風情でした。
町会倉庫の近くに相撲の土俵もあったそうです。
町内の相撲大会や盆踊り(現「浅野タイヤ」さん前)もそこで行われていたそうです。
昭和30年代のことです。現在の大門通りのアパホテルの信号辺りで、永代通りから入ってくる車を止めて、そこから奥の方の道路上で盆踊りが行われていたそうです。
その後南開橋ができたことにより、それはできなくなり、神輿庫、山車庫は現在の「永田屋」さんの前あたりにできていました。
レンガ造りでしっかりとできておりました。中に入っていた神輿、山車は消失しましたが、作り物は残っていたので、ホテル東陽(現アパホテル)ができるまで、使用してきました。
通りの両脇の竹の生垣に柳が植樹されており、交通量も少ない時代でしたから、広い道路を使っても問題がない、のんびりしたいい時代でした。
現在の六角神輿は、戦後新たに造ったものですが、それ以前の神輿は戦災で消失してしまいました。
昭和23年に深川洲崎弁天町(現東陽一丁目)深川東陽町(現東陽三丁目)深川平井町(現東陽五丁目)の有志に、福澤さんが音頭を取り、14代浅子周慶に親子神輿を発注しました。
各町会の有志には多大な寄付をいただいたと聞いております。
深川八幡宮の大祭は昭和23年に復興しました。このときに出た各町の神輿は2基か3基だったそうです。
その頃は2年ごとに大祭があったそうです。昭和27年には40町会ぐらいあったそうです。
その時みんなで神輿を持ち寄って大祭をやろうということになって、深川洲崎弁天町、深川東陽町、深川平井町も新調神輿で参加しました。